次亜塩素酸にご縁を頂くまでの私のヒストリー
2022/02/25
私の思い
先輩方への感謝を実現化したい
上記の写真は、私が大阪府立天王寺高校1年生の時に、ラグビー部が菅平で夏合宿をした時のものです。
後列左から7人目の坊主頭が私です。
藤井寺中学の時に、男子は全員丸坊主でしたので、気合を入れて丸刈りにして夏合宿に臨んだ次第です。
そのお陰で、今でも同期からは「ボウズ」とあだ名で呼ばれることがあります。
さて、弊社FMIの使命は「人々の命を守り、安全、安心で快適な生活空間を提供する。」です。
その為には自分が健康で長生きする必要があると思って、日々、空手等で鍛錬に励んでいます。
「上記天王寺高校時代の先輩方を始め、お世話になった多くの人々に感謝して、その恩返しをして大いに人生を謳歌したい。」というのがこれからの私の夢です。
今、ナノファイバーマスクMIKOTOを取り扱うこととなり、新型コロナウィルスに対抗して多くの人々の命を守り抜くことが私の天命だと改めて思っています。
そして業務用の次亜塩素酸空気除菌消臭機を開発する為に新たな特許取得を目指して、今後も続くであろう感染症との闘いに打ち勝って、世の為人の為に悔いない人生を送っていきます。
先月の11日に還暦を迎えましたので、これまでの人生は一杯借りを作ってきた人生だったけれども、これからはその借りを返す人生にしていって、感謝を実現化して形にしていきたいと思っています。
二酸化塩素と次亜塩素酸のコラボ
この時から次亜塩素酸のご縁をいただいておりました
何といっても、私の人生が大きく動き出したのは天高を受験すると決めた中3の時でした。
小学生の時は野球、中学に入ってバスケットボールをしていましたが、中3になると受験の為、部活動も終わり、ストレスを感じていたところ、ある友人が兄貴のラグビーボールを持ってきて、それで昼休みに遊びだしてストレス解消をしていました。とにかく、前にさへ投げなければ何をしても良い、という大雑把な説明だったことを覚えています。とても新鮮で面白かったので、高校へ行ってやってみようかな、と考えだした時に、ちょうど天高ラグビー部が、大阪からたった4校しか出れない近畿大会に出場という新聞記事を読んで、衝動的に天高でラグビーができたら良いなーと思いました。
でも、現実的には藤井寺中学からは天高に行けない状況だったのですが、たまたま母が応募していた公営団地に当たって、長居公園横の鷹合団地に中学3年の2学期から引っ越すことになり、天高が調整区域となって、受験できることになったのです。
ちなみに3年間、一生懸命ラグビーに取り組んだ天王寺高校を卒業して、慶應ラグビー部に入部して、最後まで一緒に部活動をした同期24名のうち、21名は慶應高校、慶応志木高校の内部出身者でした。外部出身者は恐らく30名くらい入部したと思いますが、最後まで残った3名のうち、一人は女子マネ、一人は私、そしてもう一人は大手前高校出身のT君でした。彼のおじい様は任侠の世界の親分で、小さい頃はボンボンと呼ばれて育ったそうです。それくらいでないと、あの地獄の山中湖合宿を乗り切ることはできなかったと思います。
私の場合は、天高で培われた質実剛健さで乗り切ることができ、強靭な体力と精神力を得たお陰だと思い、素晴らしい学生生活を過ごせたと感謝しております。
そして、横河電機に就職させていただき、10年間、ラグビーを中心に仕事と両立させていただきました。
でも、慶應大学ラグビー部出身の私にとって素晴らしい会社だった横河電機をちょうど10年で辞めてプルデンシャル生命へ行きました。これには、いろいろと理由があるのですが、過去一番の私の転機となりました。
当時、私は新事業企画室から生まれた情報システムセンターという新しい部署で営業をしていました。ちょうどそんな頃、1995年1月5日に長女が生まれましたがそのあと、直ぐに阪神淡路大震災が起こり、また3月にはサリン事件が発生しました。その時、本当に人生では何が起こるか分からないと実感しましたので、自分に素直にやりたいことをして、人生を有意義にしたいと強く思っているさなかのことでした。自らアップルコンピュータさんに電話して、マッキントッシュを担いで横河のシステムエンジニアリング力でOAオフィスオートメーションの世界に打って出るという試みでした。ちょうど、直営の代理店であるアップルセンターさんとの協業ができ、パチンコ台の横にあるサンドの大手メーカーへ横河電機の優秀なSEと一緒に訪問していました。人月300万円という優秀なシステムエンジニアですので、彼はお客様にコンサルティングセールスをして、結局、パチンコ台の横にC-BOXという26センチ幅の情報端末を設置するプロジェクトを受注し、千葉の行徳のパチンコ屋さんに50台くらい収めたところでした。その時、そのメーカーさんがとても喜んでいただき、稼働数の関係で11センチ幅にして大量生産をしてほしいとの依頼がありました。が、優秀なSEが多く必要とのことで、結局は断ってくるように上司から言われたのが転職した最大の原因となりました。当時18兆円産業といわれたパチンコ業界での飛躍の夢が絶たれた訳です。そんな時に、実はソニー生命さんからヘッドハンティングの電話を頂戴し、全く転職するつもりがなかったのですが、たまたま色々なことが重なり、ならばコンサルティングセールスをして、おもいっきり稼いで長女を幸せにしたいと強く思ったので、半ば衝動的にプルデンシャル生命に転職したわけです。
ソニー生命さんではなく、プルデンシャル生命に行ったのは、一つ下の代の後輩で仲の良い、日本一になった時の慶應プロップのN主将がプルデンシャル生命に加入していたからです。そのプルデンシャル生命では、愛の伝道師として、生命保険の本当の姿と大切さをコンサルティングセールスして、お陰様で多くのご契約をいただくことができました。
そして、慶應ラグビー部を自分の手で強くしたかったので、ここでも10年間お世話になったプルデンシャル生命を辞めて慶應職員へ転身しました。それは、当時の慶應ラグビー部が少し低迷していて、OB会の理事長から慶應で初めてフルタイム監督になってほしいという依頼があったからです。プルデンシャル生命時代には、お陰様でかなり成績を上げていましたので、頂ける給料も3分の1以下になり、またリニューアルという獲得資金がまだ多く残っていたのですが、慶應義塾から給料が出るのは副業に当たるということで、プルデンシャル生命を辞めざるを得なくなりました。ここでも大きな決断をできたのは、今の自分があるのは、天王寺高校ラグビー部そして慶應ラグビー部のお陰だと思い、恩返しをしたかったのも大きな理由です。私の監督在任中の2年間は、早稲田には勝てずに監督を退任したのですが、翌年には教え子たちが、我々の現役時代と同じ大学選手権準優勝を獲得できた時には、本当に嬉しかったです。
そして、現在も背水の陣で継続中ですが、世の為人の為に本当に役立つビジネスをやりたくなったので、監督退任後に、保険の代理店と並行してやりだした感染症対策ビジネスでした。
これは、当初、天高の先輩が日本で初めて二酸化塩素ビジネスで起業された会社を引き継ぐ事でした。
二酸化塩素は911の同時多発テロの時にハート上院議員の執務室に炭そ菌がメールで放り込まれて5人が亡くなった、そのビル全体を殺菌消毒したのが二酸化塩素でした。
上記の写真にありますBac-CleanとI Love Petは、高機能な除菌消臭スプレーなのですが、二酸化塩素とシクロデキストリン(ファブリーズにも入っている植物由来成分)と次亜塩素酸の3つの成分を入れた特許商品なのです。共有特許保持者である、三菱ガス化学トレーディングさんの優秀な開発者さんが次亜塩素酸を加えてくださったのが最初の次亜塩素酸とのご縁となり、今でも本当に感謝しております。
このようなことがあり、天高の先輩の遺志を引き継ぎ、二酸化塩素を担いで、いろいろとやってきましたが、やはり二酸化塩素は日本での知名度もなく、なかなかうまく行かず、最後の勝負ということで、3年前に国立病院機構仙台医療センターウィルスセンター長の西村秀一先生に直接電話して、25㎥6畳一間くらいの空間での、浮遊インフルエンザウィルス失活テストを依頼したところ、誠に残念ながら冬の低湿度の環境下では、オゾンと同様、あまり失活効果が得られなかった時に、西村先生に「次亜塩素酸でやってみたら」、とのアドバイスを頂戴してやってみたら、凄く良い結果が生まれたので、一昨年の1月31日に西村先生と共同で国際特許を取得し、開発したのが次亜塩素酸空気除菌消臭機ファインミニになります。ちなみに、西村先生は昨年の6月23日にNHKクローズアップ現代にも出演され、一昨年のクルーズ船ダイヤモンドプリンセス号にも厚労省の依頼で乗船調査された空気感染対策のスペシャリストです。
二酸化塩素から次亜塩素酸に主力は変わりましたが、昨年の9月には西村先生から紹介を受けたナノファイバーマスクMIKOTOと一緒に、これから恐らく無くならないであろう、あらゆるウィルスとの闘いに備えて、多くの人々の命を守っていこうと今は真剣に考えております。
こんな経緯があって、今、次亜塩素酸を人類を救える最も頼りになる救世主だと信じ、本当の「愛=命の伝道師」となり、これからの私の残りの人生をささげて参る所存です。